宋代の初期には、皇帝の詔勅による文化事業として、「四大書」と総称される大部な書物の編纂が、相次いで行われた。978年(太平興国3年)の『太平広記』500巻、983年(太平興国8年)頃の『太平御覧』1000巻、986年(雍熙3年)の『文苑英華』1000巻、1013年(大中祥符6年)の『冊府元亀』1000巻である。
宋代には経済の発達と共に各種の実用技術の発達も見られており、方位磁石の発明がなされている。また火薬・印刷の技術も本格的に運用されるようになり、社会の様々な面で利用されるようになった。
製紙・印刷技術の向上と市民経済の勃興により、それまで一部の官僚・貴族に独占されていた文学・思想などが市民の間にも行われるようになった。
唐五代に於いては仏教・特に禅宗の隆盛に押され、あまり振るわなかった儒教であるが、宋に入って新たな儒教が興り始めた(ただし本人たちの意識は復古であったが)。北宋・南宋に於ける儒教の新しい流れを一括して宋学[注釈 4]と呼ぶ。
宋学内の主な学派として、王安石・王雱親子の新学、蘇軾・蘇轍兄弟の蜀学、張載の関学、程顥・程頤兄弟の洛学である。それ以外に重要な人物としては周敦頤・邵雍などが挙げられる。この節で各派の違いを取り上げることは詳細に過ぎるので、北宋の諸学に共通する事柄と北宋期に於ける重大な変化および後の朱子学に繋がる重要事項を挙げるに留める。
北宋期に於ける儒学史を考える上で留意する点が二つある。一つは、道統論に付いてである。朱子によって周敦頤→程兄弟→張載→朱子という道学の流れに位置づけられてはいるが、周敦頤は当時はさほど目立った存在ではなく、程顥は自らの思想を「『天理』のふた文字は自分で独自に考案・会得した。」[21]と述べており、程顥の学が周敦頤から受け継いだものという見方は無理がある。また張載の学は程兄弟とは相違点が多く、これらをひっくるめて道学の流れであるとするのも無理がある。道統論は「朱子学に至る流れ」としてみた場合は十分に意味があることであるが、これをそのまま北宋代の儒学史と見ることには問題が多い。
もう一つは王安石の扱いである。王安石は後世の批判者からも賛美者からも「『周礼』を口実として悪政(改革)を実行した」と評されることが多く、儒学者としての彼は軽視されがちである。しかし実際には王安石は当時の大学者の一人であり、北宋儒学史に於いて欠くべからざる人物である。
まず北宋期に於ける宋学の共通点として、漢唐訓詁学に対する批判から始まるということである。訓詁学は孔子が残した(とされる)経書をひたすら解釈し、その教えを正確に把握することを目的としている。これに対して宋学では語句の解釈のような「瑣末な」問題には拘らず、この世界を主催する天とは何なのかを追い求めることを重視する。
天と人とは相関しており、人に対して何らかの方法で意思を伝えてくる。特に時の政治が悪い場合には天は天災をもってこれを伝える。というのが前漢の董仲舒によって唱えられた天人相関説・災異説(天譴説)であり、これに基づいて『漢書』五行志に於いては天災を逐一記録して「この天災は○○に対しての天譴である」と解釈を付けており、以後の正史に於いてもこれに倣った。宋代に於いても天譴説は強い影響力を持っており、王安石の改革時に鄭侠という官僚は当時続いていた旱魃を王安石の新法を天がとがめていると言って王安石を批判した。これに対して王安石は「洪水や旱魃は定め(常数)であり、堯舜でもこれを避けることは出来ない。」と述べた。これをもって王安石は近代合理主義思想の持ち主として現代においては評価されるが、これは誤りである。王安石は別の場面では天譴を肯定する発言をしており、少なくとも単純な天譴否定論者ではない。
『漢書』流の「この天災は○○に対しての天譴である」という形の考えを天譴事応説と言い、王安石が否定したものはこれである。王安石のみならず欧陽脩や司馬光、程兄弟といった者たちも天譴事応説を否定している。天譴事応説に於いては天は人間の行動を注視して過誤があれば逐一これに口を出してくるいわば人格神とされていた。これに対して邵雍は「天は数である」と言い、法則としての天を解き明かそうとした。それ以外にも周敦頤の太極・張載の気、そして程顥の天理などもまた天の法則を解き明かそうとしたものである。人格を持った天が起こす天譴はある事柄に対応するものである。これに対して法則としての天の天譴は天が起こそうとと思って起きたわけではなく、人間の行動が天の法則に適わないものであるから起こる物である。であるので天譴があった場合、時の為政者は「あの政策がどうだ」などと考えるのではなく自らの行いが天の法則から外れているのではないかと「恐懼修省」すべきであると宋学では説く。このような考え方から孔子ら聖人もまた天の法則の体現者であると考えられるようになった。
以降の文章では「法則としての天」を程顥に代表させて天理と書く。
更にここから人性論に大きな変化が現れる。人性論とは孟子の性善説、荀子の性悪説のように人は生まれつき善か悪かを問う論である。宋までに孟子・荀子に加えて、性善の者と性悪の者が混在するという揚雄の性善悪混説、性善たる上品・普通人たる中品・性悪たる下品に分かれるという韓愈の性三品説が出ていた。しかし天理とは万物を主催する法則である。当然人間の中にも天理は存在しており、その天理を発現することが出来れば聖人になることが出来るという考えになり、聖人、学びて至るべしという言葉が登場するに至る。具体的には欲望を抑制して、内なる天理を発現させることを目指す。
この考え方は孟子の性善説が最も近いといえ、そこから孟子の地位が高まることとなる。宋初までは孔子以後の人物として前述の四人が挙げられていた。孟子の著書『孟子』も経書ではなく子書(諸子百家の書)として扱われており、孟子は孔子以後の重要人物とはされていたもののあくまでその中の一人に過ぎなかった。しかし王安石の科挙改革の際に『孟子』が必修科目とされたことで『孟子』は士大夫の必読の書となり、更に朱子の道統論の中で孔子から宋学へと繋がる系譜に置かれたことによりその地位を不動にした。
宋学のこれらの考え方には仏教の影響が強くあると考えられている。理の考え方は華厳宗に、欲望を抑制する考え方は禅宗の影響が見られる。しかし仏教が多く俗世との関わりよりも自らの完成を目指すのに対して、これら宋学が目指す所はあくまで現実の政治を正すことにある。王安石と程兄弟の新法・旧法の争いに於ける論争は新学と洛学との争いと言えるのである。
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